とくしまの歴史散歩

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橋本宗吉( はしもと そうきち )

 

橋本宗吉(自画像)

 ① 貧しかった生い立ち

 

 橋本宗吉は、宝暦13年(1763年)に徳島藩の那賀郡荒田野村(現在の阿南市新野町)で生まれました。
 宗吉には姉はんと弟伝二良がいましたが、二人とも幼少期に亡くなっています。
 先祖は郷士(ごうし:武士としての待遇を受けるが農業に従事)であったため、苗字を名乗ることができました。
 しかし、父伊平の頃には、人に騙されたり、宗吉の母の病気の治療費がかさんだため、わずかばかりの田畑も売り払ったのです。しかし、看病の甲斐もなく妻に先立たれたため、幼い宗吉を連れ夜逃げ同然で大坂(現在の大阪)に出てきたのです。
 夜逃げ同然で、父は北堀江にあった木屋甚兵衛を頼り甚兵衛の長屋に住み、傘作りを始めます。宗吉は父の傘の紋書きを手伝い家計を支えますが、あまり出来映えが良かったので大変評判になったと言われています。

 

② 大坂蘭学の創始者となる

 

 このように宗吉は傘の紋書きをしていたのですが、記憶力が良かったので評判となり、天明7年(1787年)、24歳の時に、蘭学者(医師)小石元俊と豪商間重富(天文学を勉強していた)に見い出されます。
 この二人は、オランダから入ってきた最新の書物に注目していましたが、オランダ語が読めないため不自由していたのです。
 江戸時代、幕府は鎖国政策をとり、西洋との通商はオランダに限られていたため、西洋の学術・文化・技術・知識はオランダ語を通して伝えられていたからです。
 そこで、小石と間の二人は、オランダ語を理解する人材を養成しようと考え、宗吉が抜擢されたのでした。
 寛政6年(1794年)宗吉に、学費と生活費を支援した上で、江戸の有名な蘭学者大槻玄沢の蘭学塾「芝蘭堂」に入門させたのです。
 玄沢は杉田玄白の弟子で、前野良沢からオランダ語を学びました。なお、前野良沢と杉田玄白はオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を編纂したことで有名です。

橋本宗吉 塾跡地

 宗吉はわずか4か月で単語4万語を覚え、『蘭学階梯』『蘭語草稿』を習得したと言われています。
 同年大坂に帰った宗吉は、小石元俊や間重富の求めに応じてオランダの天文学・地理・医学など書物の翻訳しました。さらに、間重富の天体観測の助手も務めたのです。
 寬政9年(1797年)には、独立して内科、外科の看板を掲げ医師を開業する傍ら、大坂で初めて蘭学塾「絲漢堂」(しかんどう:現在の大阪市南船場3-3-23)を開いたのです。
 寬政10年(1798年)、師匠の小石元俊の指導のもと人体解剖に立ち会い、各臓器のオランダ名を記録しています
 この頃、絲漢堂には80人ほどの門弟がいました。その一番弟子として、中天遊(なか てんゆう)がいますが、彼から緒方洪庵、福沢諭吉へとその系譜は続いていきます。さらに、古里の徳島藩からも入門する者も現れてきます。
 宗吉は蘭学者としてはそうそうたる存在で、当時の「蘭学者相撲番付」によると西小結に挙げられています。勧進元は大槻玄沢でしたが、この番付には横綱・大関はなく関脇に稲坂三泊・山村才助が載せられています。
 さらに、寛政12年(1800年)、宗吉は刑死した女性の解剖を指導した成果によってその名が全国的に知られるようになったのです。

 

③ 日本電気学の祖と讃えられる

 

 文化8年(1811年)、エレキテルの実験を通じた静電気の研究で、オランダのボイス(Voyce)の本を翻訳した『エレキテル訳説』と、それを一般向けに解説した『エレキテル究理原』を書いています。
 また、宗吉が行った実験には、次のようなものがあります。
 大きな松の木の上に松脂(まつやに)を詰めた桶を結び付け、それに棒を差し込み、棒の先に針金を長く下げ、下に松脂を詰めた箱の台を置いた。
 やがて雷がゴロゴロ鳴るので一人がぶら下がっている針金の一端を持ち台上に立つ。もう一人は大地に立って互いに指を出し合う。すると指先から火花(スパーク)が出るという実験だったのです。
宗吉はオランダの書物を読み、手さぐりで実験をし、それが正しいことを証明して見せたのです。
エレキテルの実験と言えば高松藩の平賀源内と一般に思われますが、源内は長崎で壊れたエレキテル(医療用機器で静電気治療を行う機械)を持ち帰り復元修理し、実験なども行い有名となった人物です。
 また、宗吉以前にも、エレキテルや電気を紹介した書物はありますが、自然現象としての実験や観察を行ったのは宗吉が日本で最初だとされています。
 宗吉が書いた『エレキテル究理原』は、わが国初めての実験電気学の著書でした。そして、この業績により「日本電気学の祖」と讃えられているのです。

 

④ 失意の晩年

 

 文政10年(1827年)、門弟の藤田顕蔵(徳島藩出身)がキリスト教徒であることが発覚して大坂町奉行所に逮捕され獄死します。
 このため、この年の6月、宗吉も奉行所に呼び出され、厳しい取り調べを受けたのです。
 また、文政11年(1828年)には、シーボルト事件起こり、オランダ商館付き医官のシーボルトに国禁の『日本沿海輿地全図』を渡した幕府天文方高橋景保は逮捕され、獄死します。
 さらに、シーボルトが大坂へ来た時、会った蘭方医も逮捕されたのです。そしてこうした取り締まりを取り仕切った人物が、大阪東町奉行所与力の大塩平八郎だったのです。
 宗吉は取り調べを受けましたが疑いは晴れたのです。しかし、宗吉がキリシタン容疑で逮捕されてから、蘭方医たちも絲漢堂に姿を見せなくなりました。
 この頃、宗吉は安芸国竹原(現在の現広島県竹原市)に一時滞在していたと言われています。竹原は、宗吉の娘と結婚し橋本家の養子となった秀平の出身地であり、娘夫婦が暮らしている土地でした。
 そこで、大坂に居づらくなった宗吉が隠れ住んだのではないかと言われています。
 宗吉は秀平の才能を見込み養子としたのですが、秀平は終生橋本姓を名乗らず、結婚前の「務中姓」で通し、その子孫あえて橋本姓を隠したと言われています。
 事件当時宗吉とつながりのあった人たちは宗吉のことを語らず、門人たちも宗吉についての記録を焼却したようである。
 こうしたことで宗吉の業績が隠され、出生地の徳島では一部の人を除き、ほとんどの人が宗吉のことを知らないことは残念なことである。
 これには、幼い頃、父親と故郷を追われるように去ったことや、後にキリシタンの嫌疑をかけられ、交際のあった人たちでさえ、宗吉と関わりを持ちたくないと口をつぐんでしまったことが影響していると思われます。
 宗吉は晩年目立った活動なく、天保7年(1835年)74歳の生涯を閉じました。宗吉のお墓は大阪天王寺区上本町の「念仏寺」広島県竹原市の「照蓮寺」にあります。
 このように宗吉は失意の中で亡くなりましたが、日本の蘭学者の中では超一流の学者と評価されているのです。
 そのことは、昭和10年(1935年)9月11日、政府(宮内省)が宗吉に正五位を追贈(ついぞう:故人に対し、生前の業績に報て官位を贈ること)したことで証明されたのです。

 

 

 

 

蜂須賀茂韶( はちすか もちあき )

 

 

蜂須賀茂韶

 ① 幕府と公家の姻戚として苦悩する茂韶

 

    (  作成予定 )