とくしまの歴史散歩

 「讃岐男に阿波女」とは

「東男に京女」という言葉がありますが、四国にも「讃岐男に阿波女」という言葉があります。
 讃岐は平地が広く稲作が盛んでしたが、阿波には天下に名だたる暴れ川”吉野川”があり、現在のような堤防もなく毎年のように氾濫するため、吉野川流域では稲作をあきらめ、藍作で成功し大いに栄えていました。
 しかし、藍の栽培は大変な重労働でした。特に猛暑の中の「藍粉し(あいこなし)」の作業は忙しく、家族総出で働く必要がありました。このため、多くの女性達も男性と同じように働き、繁忙期を乗り切っていたのです。
 また、藍の収穫期には、阿波の那賀郡や海部郡、さらには讃岐からも男達が出稼ぎに来て、葉藍の刈り取り作業を手伝っていました。
 一方、田植えの時期には、阿波の女性達と農耕牛が阿讃山脈を越えて讃岐へ行き(注1)、田植え等を手伝い、代わりにお米を貰ったりしていたと言われています。
 結局、「讃岐男に阿波女」の意味するところは、ともに良く働き、相性が良いということのようです。
「嫁をもらうなら働き者の阿波の女性から」という説がある一方、「嫁にやるまい阿波の北方へ・・・」という民謡も残されており、いかにも労働が過酷だったことがうかがえます。
 現在でも、働き者の阿波の女性は健在で、2018年の帝国データバンクの全国女性社長比率調査によると、徳島県の女性社長の割合は10・4%で、都道府県での順位は第3位となっています。

 

注1)平地に恵まれない阿波の山間部では、広い水田を作ることができないため稲作が不振で、米が不足がちでした。しかし、草生地が多いことか
      ら畑地に飼料が作られ、水田の饗応役面積に比べて耕牛が多く飼育されていました。一方、讃岐は平地が広く、古くより稲作が盛んでしたが、
      飼料の問題などから牛が不足していました。そこで夏の田植えの6月と秋の11月の麦蒔きの年2回の耕作時には耕牛が不足していました。
       こうした事情から双方の利害が一致し、農繁期の間、阿波から讃岐に牛を借入れるという風習が生まれました。これが借耕牛(かりこうし)
      と言われているものです。