とくしまの歴史散歩

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長井長義( ながい ながよし )

 

長井長義(写真)

 @ 長井長義の少年時代
 長義は、弘化2年(1845年)に徳島藩の典医であった父琳章の長男として、名東郡常三島村長刀町(現在の徳島市中常三島町2丁目)で生まれました。幼名は朝吉(後に元服して直安、さらにドイツ留学時に自ら長義と改名)といいました。
 長義が4歳ときに母が亡くなり、父は後妻を娶ります。しかし、継母とはうまくいきませんでした。
 そのことを知った藩主蜂須賀斉裕は不憫に思い、彼が父と一緒に登城することを許し、小姓として仕えさせたのでした。
 父琳章漢方医でした。長義が医師となることを期待し、一緒に登城する道すがら、野生の草を手に取り、名前や薬草としての効能をいつも教えるようにしていました。
 このように長義は、医師になるべき宿命を背負い、小さい頃から医師として必要な知識を日常生活の中で覚えていったのです。
 そして、まだ少年の面影の残る15歳の頃には、医師となり父の代診を務めるまでになっていました。
 しかし、彼の心の中で「病気を治すのは医師ではなく、薬ではないのか。医師は一度に一人ずつしか治療できないが、薬で多くの人の命を救うことができるのではないか。」といった思いが次第にに強くなっていくのでした。
 これには父と同じ徳島藩の典医であった関寛斎(別掲)の影響が少なからずあったものと思われます。寛斎は長崎留学の経験があり、当時としては珍しい西洋医学、化学の知識を持ち、薬草から病を治す成分を抽出できることを折に触れ語りました。また、当時の化学書の最高峰である「舎密開宗」(舎密は化学を意味する)を読むよう長義に勧めたのでした。

 

長井長義通りを示すプレート

生家前の長義の名を冠する通りにあるプレート

生家標柱

生誕の地を示す標柱

 

A 長崎留学

 

 幕末にペリーが浦賀に現れ、砲艦外交により開国を迫ります。尊皇攘夷運動が高まる一方、西洋の学問や技術を学ぶ必要性を説く者もあらわれます。
 江戸時代、鎖国の中にあって、外国の文化に触れることのできる場所は、唯一長崎をおいて他にありませんでした。
 そこで徳島藩でも、慶応2年(1866年)、藩内の英才を選抜し、長崎に留学させることにしました。この頃には長義の秀才ぶり藩内に知れわっており、この選考に選ばれます。
 長義の父のもとには藩庁から、「洋学修行のため長崎に遣わす」旨の命令書が届きます。しかし、父は「医学修業」のために派遣されるものと思っていたのに、「単に洋学修行のため」との命令を訝しく思い、改めて藩庁にお伺いしますが、「医学にかかわらず、自分の好きな学問をするように。」との答えでした。
 長義にとって長崎はまるで異国でした。初めて見る西洋人やその振る舞いにカルチャーショックを受けるのでした。
 彼は幕府の医学所と病院を兼ねた「精得館」に通い、西洋医学、臨床医としての実習などを学びますが、その期間は最初の1か月間だけでした。
 その後、精得館には病気と称して休学し、日本で数少ない写真館を開いていた上野達彦に師事します。ここで硝酸銀を使った写真を見て化学の不思議さと探究心に心を奪われていくのでした。そして、薬品の製造、砂糖の精製、電気メッキ、カービン銃、大砲の発射管などの研究に明け暮れました。
 なお、上野達彦宅には多くの幕末の志士が集まっていました。長義はここで坂本龍馬、大久保利通、伊藤博文などに会っています。

 

B 大学入学とドイツ留学

 

 長崎留学を終え、しばらくすると明治維新となり、長義にも転機が訪れます。江戸は東京と改められ、東京に大学が設置され各藩から有為なな人材が集められます。長義は徳島藩から大学東校(東京大学医学部の前身)に派遣されます。
 ここで、一般教養から、生理学、薬物学、病理学、臨床講義など幅広い勉強をします。また、勉強家で品行も良かったことから、学生でありながら「少寮長心得」という役職に就きます。この役職は最下級ながられっきとした官職で、学生を指導する立場でもあったのです。
 しかし、長義の関心は医学よりも一層化学に向かいようになり、化学を学びたい一心からから理化学を学ぶことのできる大学南校に転学しようと企てます。しかし、これがばれてしまい叱られてしまいます。
 そのような折、明治政府は日本の近代化を図るための指導者を育成する必要性を痛感し、そのために海外への留学生を派遣することを決めます。そして、この第1回国費留学生に長義が選ばれます。当時、医学の先進国はドイツ(当時はプロイセン王国)であったため、ドイツに派遣されることになったのです。
 明治4年、長義26歳のときに横浜を出港し、アメリカを経てドイツベルリンに到着します。そして、1年後ベルリン大学に入学し、植物学、定性分析などを学びます。
 長義が師事したのは、アニリン染料の合成や、ホフマン反応と呼ばれる、現代の教科書でもお馴染みの業績をあげた化学者のホフマン教授でした。
 ホフマン教授は徹底的に実験を重視した教育を行いました。そして、長義は次第に頭角をあらわし、ホフマン教授に認められ私設助手に任命されます。さらには明治14年、36歳のときにはベルリン大学の助手となり、安定した収入を得るようになりました。
 この地位は、ホフマン教授の後継ぎとして将来ベルリン大学の教授を約束するものでした。教授は将来ドイツに残ることを願いドイツ人女性との結婚を進めます。そして、教授のはからいで石材工場の経営者の娘「テレーゼ」と見合いをするのでした。
 父から帰国して医師を継ぐよう求められていることに加え、異国の女性との結婚に父の許しがもらえるか、さらには、彼女が日本での生活になじないなど不安があり結婚を躊躇します。ホフマン教授は「ドイツの女性は心を捧げた男のためなら水の中、火の中でも飛び込む」と言って背中を押しますが、それでもなお迷い決断ができませんでした。

 

C 帰国と大学教授に就任

 

  明治政府は、文明開化を担う先進技術や知識を有する指導者として、ドイツ、フランス、イギリスなどから高給で多くの外国人材を雇い入れていました。
 しかし、その給与の支出が国の予算を圧迫したことや、文化の違いから意思疎通を欠き、外国人指導者との間でいさかい絶えませんでした。そこで、海外に派遣した留学生の帰国を促し、日本人による指導体制を築くことを急ぎます。
 明治以前には、薬と言えば薬草をすりつぶしただけの漢方でしたが、明治初期には化学的に作られた医薬品が外国から輸入されるようになっていました。しかし、その権利を外国人が独占し、しかも粗悪品も少なからずありました。しかし、当時の日本には品質を分析する技術も、安全な医薬品を作る技術もありませんでした。そこで、政府は半官半民の製薬会社を興すことを計画します。
 そして、日本おける薬学を進展させ、設立予定の製薬会社を指導する人材として長義に白羽の矢を立て帰国を再三要望します。そして、東京帝国大学教授、衛生局試験所長、中央衛生委員会委員などの輝かしいポストが用意されました。
 これは長義に対する期待がいかに大きかったということが窺えます。国のためにという口説き文句とともに、ホフマン教授が勧めるテレーゼとの結婚の許可を父に許しもらう意味からも、日本に帰らなければならないと思い帰国を決断します。
 そして明治17年、39歳の時に帰国します。長義がドイツに留学してから13年の月日が経っていました。徳島に帰り、父から結婚の許しを得てテレーザと結婚したのは、それから2年後の41歳のときでした。

 

D 帰国後の活躍

 

 日本に帰国した長義は、東京帝国大学や、内務省衛生局試験所、大日本製薬合資会社などで漢方薬の研究を始めます。産学連携の先駆けでもあったのです。
 帰国して1年後、野生植物の麻黄(まおう)からエフェドリンの抽出に成功します。このエフェドリンは気管支喘息のほかアレルギー症状,夜尿症の治療にも現在でも用いられています。
 この薬の開発によって、喘息の急激な発作により、呼吸困難に陥り死に至る患者を救うことができるようになりました。
 そして、これが日本における天然物有機化学と合成化学研究の出発点となったのです。
 かつて幼少の頃から、父が野に咲く花や道端に茂る草などの名前や効能を教えたことが、長義の身体の中で生き続けたのです。
 この後も自らが研究の先頭に立ち、瞳孔拡張剤のミドリアチン、局所無麻酔薬のアロカインなど数々の医薬品、化粧品なども開発しました。
 また、自らの研究だけでなく、女子教育にも力を入れました。ドイツへの留学時に、大学などで女子学生や助手などを目にしていたことから、「日本においても女子教育の必要である」との信念を持っていました。
 日本女子大学の家政学部化学科で教鞭をとるとともに、長義の設計による「香雪化学館」が建設されました。そして、そこには当時東京帝国大学以外どこにもない最新のドイツ式研究施設が整備されたのでした。
 ここで長義は黒田チカ(お茶の水女子大学教授)、丹下ウメ(日本初の女性農学博士)、鈴木ひでる(日本初の女性薬学博士)などを育て、その後日本の女子教育が大きく発展する契機となったのです。
 さらに、ローマ法王庁の理解を得て、フランスの修道女を校長に迎え雙葉高等女学校(現在の学校法人・雙葉学園)が設立されましたが、長義は顧問に就任するだけでなく、 ここでも自ら教鞭をとったのでした。

長井長義像

 一方、製薬の人材の養成のため、国立の富山薬学専門学校、熊本薬学専門学校の官立化に努めました。

 また、ふるさと徳島の徳島高等工業学校(現在の徳島大学)の応用化学科に製薬化学部が設立されるよう奔走し、実現にまでこぎつけたのです。
 また、江戸時代に隆盛を誇った徳島の特産品の藍が、明治時代半ば頃には化学染料に押され衰退していることに心を痛め、藍製造技術の改革にも協力します。
 このように多忙を極めた長義も終焉のときを迎えます。昭和3年9月、舌に腫瘍の兆しがみられましたが、満州薬学会、朝鮮薬学会での講演を強行します。帰国後、赤十字病院で診察を受け、病気は喉頭癌であることが判明します。
 そして、昭和4年2月6日に発熱し、急性肺炎と診断されます。そして2月10日、長義は眠るが如く旅立ち、83年の生涯を閉じたのです。
 今年、元号が平成から令和に変わりますが、長義はなんと、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と10の元号を生き抜いたのでした。
                                                                                                                             徳島大学薬学部校内に建つ長義像

 

E 主な栄典

 

位階
  ・明治17年  正六位
  ・明治27年  従五位
  ・明治30年  正五位
  ・明治44年  従三位

 

勲章等
  ・明治33年  勲四等瑞宝章
  ・明治35年  勲三等瑞宝章
  ・明治44年  勲二等瑞宝章

 

外国勲章
  ・昭和 2年  ドイツ国赤十字第一等名誉賞
  ・昭和 4年  ローマ法王庁聖セブルクロ勲一等大十字賞

 

学位
  ・明治21年  理学博士
  ・明治40年  薬学博士(日本で第1号の薬学博士)