元和元年(1615年)、徳川幕府は武家諸法度を定め、城郭の修理は必ず幕府に届け、許可を受けることを義務づけるとともに、新しい築城を禁止しました。
大名が許可を受けずに修理等をすると改易などの厳しい処分がありました。この例としては、秀吉子飼いの武将の福島正則が台風で雨漏りする広島城の修理を幕府に願い出ていましたが、許可が出る前に修理したこと等により、広島藩(49万8,000石)から高井野藩(4万5,000石)に改易させられたことが有名です。
徳島城の鷲の門は、蜂須賀氏が築城したときにはありませんでした。3代光隆のときに城の南端に薬医門様式の大手門(正門)が建てられました。これが「鷲の門」です。
武家諸法度に照らせば、大手門の建設は難しい。そこで光隆は一計を案じ、「城内で鷲を飼いたい。ついては通用門を造りたい。」と申し出て、許可を得たという。
このことから「鷲の門」と呼ばれるようになったという伝承があります。
明治6年(1873年)に出された「廃城令」により、徳島城の他の建物は取り壊されましたが、鷲の門は記念として残されました。
昭和20年の徳島大空襲によって焼失しましたが、平成元年徳島市制100周年を記念して復元されまています。
徳島城解体前の旧「鷲の門」
武家諸法度(元和令)
・ 文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。 |
※ 徳川家康は、諸大名を伏見城に集め徳川秀忠の命という形で諸大名統制のための全13ヶ条の法令を発布しました。これを武家諸法度といい、年号を取って元和
令とも呼ばれています。後に徳川家光の参勤交代の義務づけや大船建造の禁止の条文加えた寛永令など度々改訂されています。