とくしまの歴史散歩

赤穂事件のあらまし

江戸城内で赤穂藩藩主の刃傷沙汰と切腹

  赤穂事件は、元禄14年(1701年)3月14日に江戸城内の「松の廊下」において、赤穂藩藩主の浅野内匠頭・長矩が旗本の吉良上野介・義央を切りつけたことに端を発します。
  江戸時代、幕府は毎年年頭に将軍の名代として高家(朝廷との取次役)を京都の朝廷に派遣し、新年の賀詞と進物を献上するのが慣わしでした。
  一方、朝廷もその答礼として勅使が江戸に下り、将軍に拝謁し天皇のお言葉を伝えていました。そして、朝廷と幕府は良好な関係を維持するため、双方とも最大の持て成しを行っていたのです。
  この接待の儀式は、朝廷の作法で行わねばならず、饗応役を命じられた大名は経費の全額負担や、複雑な作法を憶えるなど大変気の重い役目でした。
  事件当時、勅使饗応役は内匠頭、そして高家筆頭の上野介が内匠頭の指南役だったのです。内匠頭は過去(18年前)にも饗応役を務めたことがありましたが、この度は2月4日に饗応役になったばかり、しかも、将軍の母が朝廷から女性としては最高位の「従一位」を授かるため、これまで以上の接待が必要でした。
  朝廷の勅使が3月11日に到着しますが、その直前の2月29日まで上野介は高家の用務で京都に上り不在でした。また、京都から帰ってきてからも、内匠頭は特別な対応が必要にもかかわらず甘く考え、上野介と十分な打ち合わせをしないまま、勅使を迎えることになったのです。
  事件が起きたのは、勅使滞在の最終日の3月14日でした。内匠頭が斬りかかったのは上野介に「遺恨」があったためとされていますが、この遺恨の詳細については、内匠頭が接待費用をケチったため不仲となったとする説、指南料が少なかったため必要なことを教えなかったイジメ説、塩の利権を巡る対立説などがありますが、何もしゃべらず切腹したので分かりません。
  いずれにしても、幕府にとって大事な朝廷勅使の接待の最中に、しかも、朝廷饗応役の刃傷沙汰。将軍・綱吉は激怒し、内匠頭に即日切腹と赤穂藩浅野家五万石の取り潰しを命じます。
  しかし、一方の上野介は、眉間と背中を斬られたものの傷は浅く、また、彼に対しては何んのお咎めもなく、寧ろ将軍から見舞いの言葉をかけられます。
  当時の武家社会の慣習からすれば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」でした。それに従えば、内匠頭と上野介は「双方とも切腹」となるはずでした。上野介が切りつけられたときに刀に手をかけなかったことで、この事件は喧嘩ではなく、内匠頭の一方的な「不行跡」とされたのです。

 

藩の大混乱と大石内藏助のリーダーシップ

 事件後、早駕籠で藩主の切腹と藩の取り潰しが伝えられ、噂すぐに藩内に広がります。このとき藩の筆頭家老だったのが大石内蔵助・良雄だったのです。
 内藏助はこの事件が起きるまで、筆頭家老でありながら「昼行灯」と揶揄されるほど存在感のない人物でした。松の廊下の刃傷事件から5日後、内藏助は家臣を集め今後の方針を決める会議を開きます。家臣の意見は、「籠城」「城の明け渡し」「上野介への敵討ち」「切腹」の4つに分かれ、会議は紛糾し収拾が付きません。内藏助はこれまで考えられないような手腕を発揮し、冷静で的確な判断を下し、行動に移します。
 藩は取り潰されますが、内藏助はあくまで浅野家の再興を第一に考えます。そのためには、「城を明け渡す」以外の選択あり得ず、ひとまず城を明け渡すことに意見をとりまとめます。
 また、赤穂藩では藩札を発行していましたが、藩の取り潰しに伴い藩札が紙くずとなるため、商人や領民が押しかけ、金銀などの正貨との交換を要求します。内藏助は藩札との交換に応じるため、赤穂浅野家の本家筋に当たる広島藩に借用を頼み込みますが、累が及ぶことを恐れ冷淡な態度を取ります。そこで、藩所有の船や鉄砲などの武具だけでなく、内藏助自身の邸宅までも売り払い、藩札の回収をしました。全額とはいきませんが、取り潰される藩としては異例の高い率(額面の6割)で交換し、城下の混乱を押さえました。
 また、職を失う藩士に対する割賦金(わっぷきん:退職金)で意見が対立します。これから先行きが見えない浪人生活となるため、切実な問題で揉めるのも尤と思われます。内藏助は頭割り均等配分を提案しますが、知行割り配分(石高に応じた配分)を主張し反対する者もあり、結局折衷案で配分することに落ち着きます。
 結果的に、身分の低い者に手厚くなりましたが、内藏助自身は割賦金を辞退したと伝えられています。そして、藩士には藩から半年分の米も支給され、仇討ちを心に秘め城から退去していったのです。

 

討ち入りの決定と成就

蜂須賀略系図

 幕府は内匠頭の弟を閉門(謹慎)の処分にしますが、この処分が解かれれば浅野家の再興の可能性があります。そこで、内蔵助は上野介に何の処罰もないことに不満を持つ藩士達が勝手な行動にでないよう誓詞を出させていました。

 幕府はその後、内匠頭の弟に広島藩の浅野本家預かりを言い渡します。これにより浅野家の再興は絶望的となったため、内蔵助は誓詞を出させていた旧藩士を集め、主君の無念を晴らすべく上野介を討つことを決めます
 内蔵助ら旧藩士は江戸に下り、名前を変え、水面下で準備を進めます。剣術道場を開いたり、商人に身を替え仇討ちの機会を窺います。しかし、生活苦から脱落する者も出てきます。最後まで残った者は47人。
 そして、内匠頭の月命日の元禄15年(1702年)の12月14日未明に吉良邸へ討入り。およそ2時間後に上野介を発見、その首をとり主君の仇討ちに成功したのです。
 吉良邸を引き揚げた一行は、浅野家の菩提寺である泉岳寺に向かい、亡き主君の墓前に上野介の首を供えました。

 

内蔵助ら46人の浪士の切腹

 討ち入りの報告を受けた幕府は、赤穂浪士を処分が決まるまで、細川越中守綱利、松平隠岐守定直、毛利甲斐守綱元、水野監物忠之の4大名家に預けます。死罪か助命か。世論は助命の声が大きく、幕府内でも意見が分かれますが、最終的には「徒党を組んで暴挙に至った復讐」と判断され、切腹という処分が下されました。
 元禄16年2月4日 (1703年)、赤穂浪士達は預けられていた各大名屋敷で46人が切腹し事件は終息します。討ち入りに参加した者は47人でしたが、吉良邸から泉岳寺に引き揚げる途中で1人(寺坂吉右衛門という人物)がどこかに消えてしまいます。この理由はいまだ分かっていません。
 この事件は、後に「主君に対する忠義心」を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」として人気を博し、「忠臣蔵」として世に知られるようになります。そして、彼らの忠義をたたえて「赤穂義士」とも呼ばれています。

 

討ち入りと徳島藩との繋がり

大石内蔵助像

 なお、上野介は松の廊下刃傷沙汰の後、元禄14年3月23日に高家お役御免となり、幕府が8月19日には呉服橋の吉良の屋敷を召し上げたためす、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になります。

 このことにより、大名屋敷の多い呉服橋と比べ、人気のない郊外にある本所はずっと仇討ちに適した場所となってしまったのです。
 幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明ですが、吉良邸の隣に徳島藩の支藩であった阿波・富田藩(5万石)の屋敷があり、藩主蜂須賀隆重から、”赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていました”。こうした事情も影響したものと思われます。
 「蜂須賀隆重は蜂須賀本家の親戚筋に当たる内蔵助が討ち入りをしやすくするために老中に願い出て、幕府が吉良を郊外に移した。」そんな噂が江戸に流れました。
 そして、正に吉良上野介が本所松坂町に移り住んだすぐ後に、討ち入りが行われたのです。
 さらに、内匠頭が饗応役となった元禄14年の翌年、つまり、討ち入りのあった元禄15年には蜂須賀隆重が饗応役に選ばれます。蜂須賀隆重は饗応役を経験することで、内匠頭の心情を推し量り、血縁のある内蔵助(蜂須賀家政の玄孫)に情が移り、討ち入りに協力したのかもしれません。
                                                                                                                      東京高輪:泉岳寺の大石内蔵助像

 

四十七士の大石内蔵助は蜂須賀家政の玄孫

 徳島藩の藩祖である蜂須賀家政の娘「万姫」は、天城池田家初代「池田由之」に嫁ぎ「池田由成」を生んでいます。
 その「池田由成」の娘「池田熊子」は、赤穂藩浅野氏の家老である大石家の嫡男大石良昭に嫁ぎ、忠臣蔵で有名な 「大石内蔵助・良雄」を生みました。つまり、大石内蔵助は蜂須賀家政の玄孫(やしゃご)に当たります。

大石内蔵助系図

大石内蔵助の遺書(いとま乞い状)

 徳島藩家老の蜂須賀由英は大石内蔵助の母の熊子の従兄ですが、由英の実子に三尾豁悟( みお かつご : 前掲の略系図参照)がいます。大石内藏助と三尾豁悟は年齢が近く親しくしていて、赤穂藩が改易され内藏助が浪人していた時にも資金援助をしています。
 内蔵助は三尾尾豁に、吉良邸への討入前日の元禄14年12月13日付で手紙を書いています。永遠の別れを告げる「いとま乞い状」と呼ばれるものです。
 手紙には、内蔵助が主君の無念から討ち入る決意をした経緯を記し、「時期が来たので吉良の屋敷に乱入する。自分の死後、親類の池田家や徳島側に討ち入りの件を知らせてほしい。手紙は読んだあと、焼いてほしい」と心情を吐露しています。
 岡山藩の池田家は母の実家で近い親類なので幕府に警戒されている。そこで、遠縁の三尾豁悟ならば手紙が届くと考えたものと思われます。討ち入りは極秘で事前に漏れると失敗する恐れがある中で、事前に討ち入りの狙い手紙で知らせるなど、2人の信頼の強さを裏付けるものとなっています。

 

大石内蔵助手紙

 

大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙 「12月13日」の日付が記されています

大石内藏助辞世の句

あら楽や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

 

※ この句は主君浅野内匠頭に対してのもので、実際には次が辞世の句と言われている。

 

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

 

※ 討ち入りに参加したのは47人(うち1人は行方不明)。辞世の句には48人となっています。もう1人は誰なんだろうか。?
     それは主君浅野内匠頭と思われます。この句は討ち入りを成就し、48人で共に天国・極楽に向かう心安らかな気持ちを表現したものと思いま
  す。
     ところで、これは余り知られていませんが泉岳寺には討ち入りに参加していないもう一人の義士が眠っています。その人物は松の廊下の事件
  を赤穂に急報した萱野三平・重実です。彼は父と意見が相違し、討ち入りに参加できませんでした。元禄15年(1702年)1月14日、浅野内匠頭の
  月命日に自刃したのです。その後、討ち入りを果たし切腹した46人と共に、その志から一緒に泉岳寺に埋葬されたのです。

徳島と赤穂のもう一つの繋がり

入浜式塩田

  蜂須賀氏は阿波に入国する以前には播州龍野の城主(5万3000石)でした。これは、天正13年(1580年)に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が三木城を攻め落とし、家臣の蜂須賀小六・正勝に与えたことによります。

 龍野に隣接する赤穂から荒井(高砂)にかけて海岸一帯は、我が国で最も早く入浜式塩田が取り入れられた地域です。その中でも、赤穂は古くより塩の産地として全国にその名が知れ渡っていました。
 蜂須賀氏が龍野を治めたのは短期間でしたが、赤穂に隣接していたので、蜂須賀氏は生活必需品の食塩がこれから有望な産業となり得ることを知っていたものと思われます。
 そこで、龍野から阿波に入国するとき、赤穂の製塩の技術者を撫養(現在の鳴門市)に招き、入浜式塩田を開いたと伝えられています。この地における製塩の歴史は古くからありましたが、産業としての製塩業は本格的に始まったのはこのときからです。
 兵庫県の「加古郡誌」に、次のような記述があります。「・・・・荒井塩業の創始者六右衛門は赤穂に至りて塩業を起こし、更に阿波撫養に至たりて四国における塩業の始祖となり了れりと云う。」
 このように徳島と赤穂は塩でも縁があったのです。私は以前に鳴門市内の製塩業者を訪れたことがあります。その企業の経営者は先祖が蜂須賀に連れられ鳴門に来たとを語っていたことを思い出します。