とくしまの歴史散歩

写楽とは一体何者なのか

三世大谷鬼次の奴江戸兵衛

 写楽のペンネームは「東洲斎写楽」と言い、日本を代表する浮世絵師と言われています。

 江戸時代中期の寛政6年(1794年)5月から翌年1月までの約10か月という短い期間に140種類以上の役者絵を中心に、相撲絵、追善絵などを描き、忽然と姿を消した謎の人物として知られています。
 写楽の代表作には「三代目鬼次の奴江戸兵衛」(左の絵)があります。これは寛政6年(1794年)5月河原崎座で上演された演目「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」の中で三世大谷鬼次が演じた「奴江戸兵衛」を描いたもので、デフォルメを駆使し、鷲鼻、受け口など顔の特徴を極端に誇張し、表情もダイナミックに描かれています。

 

 江戸時代の浮世絵師に関する文献に『増補浮世絵類考』がありますが、それによると、「写楽 天明寛政年中の人 俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀ニ住須 阿波侯ノ能役者也 号東洲斎」と書かれています。

 

 当時、徳島藩の江戸における中屋敷が南八丁堀にありました。その中屋敷には徳島藩お抱えの能役者が居住していたのです。
「東洲斎」という名前も、徳島藩の屋敷のあった南八丁堀が「江戸の東の洲(しま)」であったことに加え、斎藤十郎兵衛の「斎」とを組み合わせ「東洲斎」と名乗ったものと考えられます。

 

 なお、蛇足ですが、徳島藩の中屋敷の土地は、元々テレビドラマ「鬼平犯科帳」でおなじみの主人公で火付盗賊改役の「長谷川平蔵」の屋敷でした。徳島藩はこの土地を三角交換で手に入れました。
 長谷川平蔵は旗本桑嶋元太郎が持っていた本所の土地に移り、長谷川平蔵は南八丁堀の土地を徳島藩に譲りました。そして、徳島藩は目黒白金の広大な下屋敷の一部を桑嶋元太郎に分与したのでした。

 

 さて、写楽の話に戻りますが、平成9年6月、埼玉県越谷市にある斎藤十郎兵衛の菩提寺「法光寺」(元は江戸築地にあった)に過去帳が発見されました。その過去帳には「八丁堀地蔵橋・・阿州殿御内・」と書かれていたため、写楽の徳島藩との関わりはほぼ証明されたのではないかと思います。

 

写楽の墓

 埼玉の菩提寺「法光寺」に写楽を記載した過去帳がある一方、徳島市寺町の「東光寺」には写楽のお墓がある。

 写楽が一介の能役者に過ぎないとするなら、過去帳とお墓が別々にあることなどあるのだろうか。?ミステリーは益々深まります。
 さらに、なぜ短期間で忽然と消えたのだろうか。?興味は尽きません。

 

 

 

 

 

 

                                                                                               徳島市寺町の「東光寺」にある写楽のお墓(手前)

徳島藩の江戸における中屋敷の位置

江戸中屋敷

 

         出典:「築地八丁堀日本橋南絵図」  松平阿波守と赤で囲ってある部分