徳島市伊賀町
徳島市伊賀町は眉山の麓に位置し、かつて文豪「モラエス」も住み、閑静な住宅街として知られています。
伊賀といえば、、甲賀と並び忍者の里として有名な伊賀を思い浮かびますが、その伊賀と徳島の伊賀町が関わりがあると言えば、驚かれるのではないかと思います。
これは小説なので必ずしも史実とは限りませんが、童門冬二の小説「蜂須賀重喜」に、「蜂須賀家は、眉山の麓に、まず伊賀丁をおいている。伊賀忍者の町である。」という一節があります。
また、大正時代の初めに出版された『御大典記念阿波藩民政資料』にも、次のような記述があります。
江戸時代の初め、忍びの達人である伊賀者が蜂須賀家を頼って阿波国にやって来た。彼らは伊賀を出た後、出雲国の大名堀尾山城守に仕えたが、同家が断絶したので讃岐国の生駒讃岐守に仕えた。ところが同家も改易となったので、徳島藩2代藩主蜂須賀忠英の時代に徳島を訪ね、なんとか自分たちを召し抱えて欲しいと懇願した。
徳島藩では、彼らをどれほど手柄があっても昇進させることはないという条件のもとに、徒士(かち)として採用した。そして、伊賀者を士分に取り立てて、「伊賀士」と呼んだ。
伊賀士の仕事は、徒士が務めた行列の先導等が主だったが、元文3年(1738)からは特命を受け、8人を4番編成として、毎日2人ずつ出勤させた。1人は徳島城御殿にいてにらみをきかせた。もう1人は月番の仕置家老宅で同じく警護役を務めた。
そして、彼らの屋敷があったのが、江戸時代には伊賀士丁だったというのです。
彼らが忍者であったかどうか定かではありませんが、系譜・系図資料である成立書(徳島大学附属図書館所蔵)などを見ると、伊賀出身であることは確かなようです。
なお、徳島藩の家臣を身分,家格別に列挙した名簿である「阿州分限帳」(右写真)には「伊賀士」は、名前の上に朱書きで「伊賀」と記入されています。
徳島市新蔵町
徳島藩初代藩主蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)は、大坂の夏の陣において、西軍参加を促す密書に応じて大坂入城を志そうとする父家政(小六の子)を説得し、家康に密書を送るととともに、自ら出陣し、木津川口の戦い、博労淵の戦いなどで多くの武功を挙げます。
この功績によって蜂須賀氏には松平姓の家名を将軍家より下賜されるとともに、淡路約7万石が加増されます。加増された淡路島からの年貢米を納める新しい米蔵を現在徳島地方裁判所がある場所に建てました。このため、この地を「新御蔵」・「新御蔵丁」と呼びました。「御」は主君が所持するものという意味でつけられていましたが、いつしか「御」が取れて新蔵町となったのです。
なお、江戸時代には、この辺りは藩の重臣の屋敷が並ぶ武家屋敷でした。
眉山
どこから見ても眉の形をしていることから「眉山」と名付けられたことは間違いありませんが、それでは、いつ頃から眉山と呼ばれるようになったのだろうか。
今年、明仁天皇陛下が譲位し、徳仁新天皇が即位され、「令和」と改元さました。その令和の出典が万葉集だと話題になっています。
その万葉集(第六巻ー998)に次のような歌があります。
「眉の如(ごと)雲井に見ゆる阿波の山、かけて漕ぐ船、泊(とまり)も知らず」
この歌は舎人親王の御子で、淳仁天皇の兄宮「船王(ふなのおおきみ)」の作です。
その意味は
「(現在の大阪の住吉あたりの海岸に立ち)遙か彼方の水平線の辺りの阿波の国の方向に、眉毛のように見える山影を目指して、漕いでいく船がいる。その船の泊まるところは一体どこだろうか。」と行き先に思いをはせ、寂しさや頼りなさが漂う歌です。眉山山頂には万葉学者・犬養孝氏の筆によるこの船王の歌の歌碑が建っています。
しかし、この万葉の時代から一般的に眉山と呼ばれていたというわけではありません。
この山が眉山と呼ばれるようになった時期については、様々な説があります。
享保9年(1724年)、京から招いた歌人・有賀長伯が徳島城での歌会で詠んだ歌が最初だとか、享保13年(1728年)に徳島藩の典医・漢詩人・七條寿庵が万葉集の船王の歌から命名したなどの説です。
しかし、文化12年(1815年)に徳島藩が編纂した地誌の「阿波志」によると、富田の山、佐古の山との記述があります。
このことから、一般に眉山とと呼ばれるようになったのは、文政年間(1818年~1830年)以降だと言われており、地誌に眉山と記載されるようになったのは明治中頃(1895年)と、まだ比較的新しいことのようです。