とくしまの歴史散歩

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賀川豊彦( かがわ とよひこ )

 

① 賀川豊彦苦難の少年・青年時代

火薬の生産等

 賀川豊彦は、明治21年賀川純一の子として神戸市で生まれました。豊彦という名前は、父純一が阿波国一の宮、大麻比古神社の祭神である豊受姫尊(とようけひめのみこと)と猿田彦尊(さるたひこのみこと)から1字ずつもらい名付けたと言われています。

 父純一は徳島の自由民権運動の政治結社「自助社」の創設者の一人でした。中央の役人の元老院書記官や、名東県高松支庁長、高知県徳島支庁長などの要職を務めた後、政界から身を引き、神戸で海運業を営んでいました。
 しかし、豊彦が4歳の時に両親が次々に亡くなったことから、父の本家の賀川家(現在の鳴門市大麻町東馬詰)に引き取られます。母親が正妻でなかったことなどから、周囲から嫌がらせを受けるなど、孤独な少年時代を過ごします。
 徳島中学(旧制:現在の城南高校)に進学しますが、13歳で結核の診断を受けます。さらに、15歳の時には父の海運業を継いだ兄が事業で失敗し破産します。本家賀川家も家屋敷すべてを失い、叔父の森六兵衛宅(豪商森六:現在の森六ホールディングの前身)に身を寄せることになります。
 このように悲嘆に暮れ絶望の中で希望を見いだしたのが、キリスト教でした。最初は英語の勉強が目的で教会に出入りしたのですが、次第に共感し日本基督教会徳島教会で洗礼を受けたのです。
 そして、トルストイ、ラスキンやキリスト教社会主義者の本を夢中になって読み、次第に非暴力、反戦、平和主義の思想を抱くようになり、軍事教練サボタージュ事件を起こすのでした。

 

 

② スラム街で救貧活動

明治学院高等部神学予科に進み、卒業後、神戸神学校に入学しますが、結核が重症化し何度か死の淵をさまよいます。
 病苦の中で、貧しい人々の救済事業に携わることで生きた証を立てようと神戸のスラム街に住み込みます。生活条件の極度に悪いスラム街の救済活動の中で奇跡的に健康を回復し、ハル婦人と出会い結婚します。そして、二人してスラム街で悪戦苦闘するのでした

 

③ アメリカ留学

大正3年、26歳のときにスラム街での救済活動に限界を感じ、アメリカのプリンストン神学校・大学に入学します。アメリカの社会事業や労働運動を垣間見るなど幅広い学問を修め帰国します。

 

④ 各種社会運動を指導

アメリカから帰国後、「救貧から防貧へ」をスローガンに、労働運動、農民運動、普通選挙活動、生活協同組合運動などの先頭に立ち、大正デモクラシーの一翼を担いました。
豊彦は、組合運動の指導者として神戸の三菱造船所などの労働争議を指導しますが敗北します。また、急進的な勢力の増大とともに、活動の場を農民運動に移していきます。大正11年に日本農民組合を設立し、各地の小作争議を組織し指導しました。
 普通選挙活動では、労働者に選挙権を与えよと訴え、労働者を大同団結させていったのです。その運動は議会を動かし大正9年、普選法案を提出させますが、このときは政府の思惑で実現できませんでした。
 生活協同組合運動の第一歩は、大正8年の購買組合共益社(大阪)の設立で、豊彦川は理事に就任し指導に当たります。神戸にも購買組合を設立し、これが現在のコープこうべへと発展しました。
 また、学生消費組合の組織設立に奔走し、戦後の学生生協に様々な面で大きな影響を与えたのです。
大正12年の関東大震災では、いち早く救援活動に駆けつけ、被害の大きかった東京本所にセツルメント(隣保活動の拠点)を作って奮闘します。これを契機に生活の本拠を東京に移します。

 

⑤ 平和運動

昭和初期には平和運動に身を投げ出して、懸命に努力します。昭和2~3年蒋介石軍が北上を始めると、日本軍が権益保護を唱え山東省に兵を進めると、豊彦らは「全国非戦同盟」を組織して出兵に反対します。また、昭和6年、満州事変には「クリスチャン平和同盟」で抵抗しました。
昭和15年松沢教会で行った「エレミヤ哀歌に学ぶ」と題する説教で非暴力を訴え、渋谷の憲兵隊に拘束されます。その後も何度か東京憲兵隊本部で事情聴取されました。

 

⑥ 戦後の世界連邦国家運動など

戦後、占領軍総司令官マッカーサーにいち早く意見を求められ、食糧支援を要請します。
豊彦は戦後処理内閣となった東久邇稔彦内閣の参与に選ばれるなど、人心の安定と戦災者の生活確保のために働いたのです。
 晩年は、世界連邦国家運動に取り組みました。昭和27年には、広島に世界連邦アジア大会を誘致し、議長として大会のまとめ役を務めました。
核兵器廃絶・平和憲法擁護・世界連邦国家づくりに生涯をかけて努力しノーベル賞の候補にもなりました。(ノーベル平和賞候補3度、ノーベル文学賞候補2度)
昭和34年、毎年楽しみにしていた徳島への伝道に向かいますが、宇高連絡船の中で倒れます。その後、療養生活を送りますが翌35年4月23日東京の自宅で72歳の生涯を閉じました。そして、遺骨は東京、神戸、徳島に分骨されました。

 

⑦ 大宅壮一氏の賀川豊彦の評価

噫々 賀川豊彦先生

                                                                                                                                                    大宅 壮一

 

 明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ペスト・スリーに入るかも知れない。
 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾太郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。
 そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。
 私が初めて先生の門をくぐったのは今から四十数年前であるが、今の日本で、先生と正反対のような立場に立っているものの間にも、かつて先生の門をくぐったことのある人が数え切れない程いる。
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物、それは賀川豊彦先生である。

『神はわが牧舎』(イエスの友大阪支部・1960年)より

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小室信夫( こむろ のぶお )

 

16リンカーン

 江戸時代末期に丹後国与謝郡岩滝村(現在の京都府宮津市)に小室信夫という人物がいました。

  彼は生糸縮緬商を営む豪商・山家屋の家に生まれましたが、尊皇攘夷運動に加わり、京都等持院の足利氏(尊氏、義詮、義満)の像の首を三条河原にさらします。(足利将軍木像梟首事件)
 この木像の傍らに高札が立てられ、足利将軍は「逆賊」であるため、この木像の首をはねて梟首すると書かれていました。徳川幕府は足利氏と同じ源氏系であるため、足利氏になぞらえて徳川幕府を非難したものでした。そして、この高札の文章を起草した人物が、小室信夫であったと言われています。
 京都守護職の松平容保は激怒し、徹底的な、捜査・捕縛を行うよう命じます。
 小室信夫は、追われる身となり、四国・九州などを転々としますが、逃げおおせないと悟り、京の徳島藩邸(現在の京都産業会館あたり)に逃げ込みます。
 これは、一緒に逃げていた仲間が、たまたま徳島出身であったためでした。
 しかし、徳島藩にすれば迷惑な話で、その取り扱いに困り幕府にお伺いをたてますが、「貴藩にて預かれ」というものでした。徳島藩では小室信夫を5年ほど外出も許さず幽閉します。
 ところが、明治維新となり状況が一変します。維新後は、討幕に功労のあったものが重用される時代となり、明治政府からも、有用な人材を出仕させよとの命令が、各藩に出されます。
 ところが、徳島藩は佐幕派で薩長に橋渡しができ、明治政府良好な関係が保てる適当な人材がいませんでした。そこで、目をつけたのが、幽閉中の小室信夫でした。
 彼は倒幕派からすれば、「足利将軍木像梟首事件」という輝かしい経歴があったのです。
 徳島藩は、小室を釈放し、藩の家老級という破格の待遇を与え、徳島藩士として新政府に出仕させました。彼の人生は急展開していきます。
 彼は岩鼻県(今の群馬県)の知事になった後、後述の庚午事変のときには、徳島藩の大参事(現在の副知事)として事態の収拾に当たりました。
 明治5年には、元徳島藩主・蜂須賀茂韶に同行して、イギリスへの立憲制度を視察して帰国しましたが、これがさらなる飛躍へと繋がります。
 1874年(明治7年)政府に対して、板垣退助、江藤新平らと一緒に国会の開設を求める「民撰議院設立建白書」が提出しますが、この文案を起草したのが、小室信夫でした。
 また、徳島を地盤とする政治結社の「自助社」を設立しますが、過激な言動で政府を批判したため解散させられてしまいます。
 その後は実業界に身を転じて、銀行(第百三十国立銀行)や鉄道会社(京都鉄道)、運輸会社(共同運輸:現在の日本郵船に統合)など多くの会社を起業するなど活躍しました。

 

民選議員設立建白書