人形浄瑠璃の歴史
「傀儡師」とは「くぐつし」あるいは「かいらいし」とも呼ばれ、人形芝居を行う人たちのことです。
西宮には古くから傀儡師たちが住み着いており、西宮神社の氏子として雑役奉仕に勤める傍ら、「えべっさん」の神札の普及のために全国各地を公演してまわりました。こうして西宮を発祥とした彼らの芸は全国各地に伝わり、淡路島や徳島の人形浄瑠璃や大阪・文楽座の人形浄瑠璃へと発展していったのです。
阿波の浄瑠璃がいつ頃から行われるようになったのか明らかではありませんが、淡路で人形浄瑠璃が隆盛した評判を聞いた阿波の百姓が人形芝居を習得していったもと思われます。
さらに、藩主松平(蜂須賀)氏の庇護を受けて発展を遂げていったのです。
西宮神社の北側にある「傀儡師故跡」
阿波十郎兵衛の「傾城阿波の鳴門」
約300年前の徳島藩のお家騒動を題材に、実在の人物「板東十郎兵衛」の物語です。元々、「傾城阿波の鳴門」の物語は十段ありましたが、現在は主に八段目「巡礼歌の段」だけが上演されています。
ストーリーは、次のとおりです。
浄瑠璃の「阿波十郎兵衛」は、徳島藩に仕える中間(ちゅうげん:最下級の武士)です。徳島藩の藩主玉木の若殿が高尾という傾城(殿様から寵愛を受けて国 を傾ける ほどの美女)に溺れているのを幸いに、家臣小野田郡兵衛が藩を乗っ取ろうと企てます。
この騒動のさなか、家老桜井主膳が預かっていた玉木家の家宝の名刀が何者か盗まれます。桜井主膳は家臣の十郎兵衛にこれを探し出すように命じます。
探索を命じられた十郎兵衛は名刀を取り戻すために、幼い娘「お鶴」を祖母に預け、妻お弓とともに名を変え、大坂(現在の大阪)に出て探し始めます。その方法は、盗賊の仲間となり、質屋なとに忍び込み役人に追われながら探すというものでした。
ある日、お弓が家で針仕事をしていると、飛脚が来て「追ってが迫っているので早く逃げろ」と知らせます。この切羽詰まったところに、巡礼姿の娘が訪ねてきます。
その娘の話を聞くと「小さい頃、理由は分らぬが、お婆様に私を預けて、父母はどこかへ行ってしまった。今はこうして西国巡礼をしながら父母を捜し歩いている。」のだと言います。
お国なまりが気になり「お国はどちら?」と尋ねると、その娘は「国は阿波の国、父の名は十郎兵衛、母の名はお弓と申します。」と言いました。ここで、お弓はこの娘は間違いなく自分の娘「お鶴」だと気づきます。
しかし、今は役人に追われる身であるため、ここで親子だと名乗れば、我が子にどんな災いが来るとも限らない。お弓は泣く泣く追い返します。しかし、ここで別れては二度と会えないかもしれないと思い直し、慌てて後を追います。
一方、お弓と別れたお鶴が追い剥ぎに狙われているところを、偶然にも十郎兵衛に助けられます。そして、十郎兵衛はその巡礼姿の娘を家に連れて帰ります。
その娘が小判をたくさん持っていると言うので、金に困っていた十郎兵衛は金を貸してほしいと頼みますが、娘は恐がって大声を出してしまいます。
慌てた十郎兵衛は思わず娘の口を塞ぎ、娘を窒息死させてしまったのでした。
家にもどってきたお弓がお鶴が巡礼姿で尋ねてきたと告げます。ここで初めて、十郎兵衛は自分で我が子を殺してしまったことに気付くのでした。
亡きがらを前に十郎兵衛とお弓は悲嘆に暮れます。ところが、お鶴は名刀を盗んだ真犯人を知らせる祖母からの手紙を持っていたのでした。十郎兵衛と妻はその手紙を読み、急ぎ阿波に帰り名刀を取り返すという物語です。
阿波十郎兵衛屋敷の「お弓とお鶴の像」
史実はどうだったのだろうか
十郎兵衛の実像については、2つの説があるので、ここで紹介します。通説は第一の説です。
第一の説
十郎兵衛は姓を板東といい、板野郡宮島浦(現在の徳島市川内町)の庄屋でした。徳川幕府は「武器と米の他の藩からの輸入は密輸として禁止」していました。しかし、徳島藩では慢性的に米が不足していました。吉野川は日本三大暴れ川の一つに数えられ、流域は広いが度々氾濫するため米作りができませんでした。そこで、藩では現金収入の手段として藍作りを奨励し、藍の栽培面積の増加に反比例し、稲作面積は減っていきました。さらに、米不足とはいいながら、上等米と言われている藩内で算出する淡路米を大坂堂島で高く売り払い、安い肥後米を密輸し利ざやを稼ぎ、藩財政の安定化を図っていたのです。 |
第二の説
これに対し、もう一つ異説があります。板野郡の宮島浦の庄屋という点は同じです
この説は徳島藩にとり都合の良い説でした。確かに、十郎兵衛が用右衛門は同じ日、同じ場所で処刑されたのです。このことから、世間の人々は海賊の一味と想像したのではないかと思われます。それが徳島藩としても都合よく、意図的にこのような風説を流布し、他国米密輸の事実を隠そうとしたのではないかと言われています。 |