歴史と政治経済

人形浄瑠璃の歴史

傀儡師故跡

 語りものの浄瑠璃の起源は、室町時代の琵琶法師によって始まったと言われています。これに琉球から伝わった三味線が採り入れられ、さらに安土桃山時代末期(1590年頃)に,西宮の傀儡師が人形使いと浄瑠璃を結合させて「人形浄瑠璃」ができたと言われています。

「傀儡師」とは「くぐつし」あるいは「かいらいし」とも呼ばれ、人形芝居を行う人たちのことです。
 西宮には古くから傀儡師たちが住み着いており、西宮神社の氏子として雑役奉仕に勤める傍ら、「えべっさん」の神札の普及のために全国各地を公演してまわりました。こうして西宮を発祥とした彼らの芸は全国各地に伝わり、淡路島や徳島の人形浄瑠璃や大阪・文楽座の人形浄瑠璃へと発展していったのです。
 阿波の浄瑠璃がいつ頃から行われるようになったのか明らかではありませんが、淡路で人形浄瑠璃が隆盛した評判を聞いた阿波の百姓が人形芝居を習得していったもと思われます。
 さらに、藩主松平(蜂須賀)氏の庇護を受けて発展を遂げていったのです。

 

  西宮神社の北側にある「傀儡師故跡」

 

阿波十郎兵衛の「傾城阿波の鳴門」

 約300年前の徳島藩のお家騒動を題材に、実在の人物「板東十郎兵衛」の物語です。元々、「傾城阿波の鳴門」の物語は十段ありましたが、現在は主に八段目「巡礼歌の段」だけが上演されています。
 ストーリーは、次のとおりです。

 

 浄瑠璃の「阿波十郎兵衛」は、徳島藩に仕える中間(ちゅうげん:最下級の武士)です。徳島藩の藩主玉木の若殿が高尾という傾城(殿様から寵愛を受けて国 を傾ける ほどの美女)に溺れているのを幸いに、家臣小野田郡兵衛が藩を乗っ取ろうと企てます。
 この騒動のさなか、家老桜井主膳が預かっていた玉木家の家宝の名刀が何者か盗まれます。桜井主膳は家臣の十郎兵衛にこれを探し出すように命じます。
 探索を命じられた十郎兵衛は名刀を取り戻すために、幼い娘「お鶴」を祖母に預け、妻お弓とともに名を変え、大坂(現在の大阪)に出て探し始めます。その方法は、盗賊の仲間となり、質屋なとに忍び込み役人に追われながら探すというものでした。

 

 ある日、お弓が家で針仕事をしていると、飛脚が来て「追ってが迫っているので早く逃げろ」と知らせます。この切羽詰まったところに、巡礼姿の娘が訪ねてきます。
 その娘の話を聞くと「小さい頃、理由は分らぬが、お婆様に私を預けて、父母はどこかへ行ってしまった。今はこうして西国巡礼をしながら父母を捜し歩いている。」のだと言います。
 お国なまりが気になり「お国はどちら?」と尋ねると、その娘は「国は阿波の国、父の名は十郎兵衛、母の名はお弓と申します。」と言いました。ここで、お弓はこの娘は間違いなく自分の娘「お鶴」だと気づきます。

 

 しかし、今は役人に追われる身であるため、ここで親子だと名乗れば、我が子にどんな災いが来るとも限らない。お弓は泣く泣く追い返します。しかし、ここで別れては二度と会えないかもしれないと思い直し、慌てて後を追います。

 

お弓とお鶴

 一方、お弓と別れたお鶴が追い剥ぎに狙われているところを、偶然にも十郎兵衛に助けられます。そして、十郎兵衛はその巡礼姿の娘を家に連れて帰ります。

 その娘が小判をたくさん持っていると言うので、金に困っていた十郎兵衛は金を貸してほしいと頼みますが、娘は恐がって大声を出してしまいます。
 慌てた十郎兵衛は思わず娘の口を塞ぎ、娘を窒息死させてしまったのでした。

 

 家にもどってきたお弓がお鶴が巡礼姿で尋ねてきたと告げます。ここで初めて、十郎兵衛は自分で我が子を殺してしまったことに気付くのでした。

 

 亡きがらを前に十郎兵衛とお弓は悲嘆に暮れます。ところが、お鶴は名刀を盗んだ真犯人を知らせる祖母からの手紙を持っていたのでした。十郎兵衛と妻はその手紙を読み、急ぎ阿波に帰り名刀を取り返すという物語です。

 

 

  阿波十郎兵衛屋敷の「お弓とお鶴の像」

史実はどうだったのだろうか

十郎兵衛の実像については、2つの説があるので、ここで紹介します。通説は第一の説です。

 

第一の説

 十郎兵衛は姓を板東といい、板野郡宮島浦(現在の徳島市川内町)の庄屋でした。徳川幕府は「武器と米の他の藩からの輸入は密輸として禁止」していました。しかし、徳島藩では慢性的に米が不足していました。吉野川は日本三大暴れ川の一つに数えられ、流域は広いが度々氾濫するため米作りができませんでした。そこで、藩では現金収入の手段として藍作りを奨励し、藍の栽培面積の増加に反比例し、稲作面積は減っていきました。さらに、米不足とはいいながら、上等米と言われている藩内で算出する淡路米を大坂堂島で高く売り払い、安い肥後米を密輸し利ざやを稼ぎ、藩財政の安定化を図っていたのです。
 十郎兵衛は藩より「他国米積入川口改め裁判役」を命じられ、密輸米の検査をしていました。「他国米積入川口改め裁判役」というポストは、真面目一徹な人物を必要としていました。当時の幕藩体制は石高制で、藩士の俸給も米でした。しかも、徳島藩では米を専売品として財政の安定を図る密輸入品であったからです。
 徳島藩が肥後米を密輸していましたが、この密輸米には阿波方言でいうへらこい(ずるい)カラクリがありました。肥後米は全国一律の一俵(3斗7升2合:55.8s)で徳島藩に入ってきますが、徳島藩ではそれを俵装がえして1俵(3斗4升:51s)に削減する。つまり、1俵につき3升2合(4.8s)ピンハネしていたのです。このの3升2合を漏れ米として、米を輸送する輸送料として船主に渡していました。
 ところが、十郎兵衛が「他国米積入川口改め裁判役」になって、7〜8年たった頃、船の輸送料は一律に米2石(300s)に減らされることになったのです。
 このような重大なことが裁判役程度のポストで決められるはずもありませんが、十郎兵衛から伝えられた船頭たちから恨みを買うことになるのです。元禄期に近かったこの時期は、幕府や地方の藩でも、袖の下や目こぼしが行われるのが半ば慣例となっていました。
 生真面目な十郎兵衛にはそれができませんでした。津田浦の彦助という男が肥後米を輸送していた船から輸入米25俵を紛失してしまいます。正義感の強い十郎兵衛はそれを追求し、津田浦の船頭・彦助との間に争いが生じます。
 そこで、藩は与頭(くみがしら)庄屋・森当左衛門に取り調べを命じますが、彦助は「自分は潔白だ。確かに245俵積入れたが、裁判役・十郎兵衛から220俵届け出よと命じられものである」と主張し、まるで十郎兵衛が着服したかのように申し立てます。
 一方、十郎兵衛は「彦助は過去に肥後米で私腹を肥やしている事実があったが、裁判役監督不十分の自分にも責任があるので、恐れ多くお上には申し上げられなかった。自分が責任上その一部を弁済した。残る分も、分納、返済の見通しを立てた。その恩も知らず、彦助の態度は心外なことである。」と抗弁し、白黒がはっきりしません。
 こうして、十郎兵衛と彦助の言い分が対立したまま決着がつきません。彦助はどこまでも執拗で、再三再四にわたりは十郎兵衛の非を奉行所に訴え続け、最後に藩主にも直訴したとも言われています。
 このことが表沙汰になり幕府が知ることになれば、米の密輸の事実も明らかになり、藩が取り潰しになる恐れがありました。そこでこのことが世間に広まらないうちに、なんとかつなければいけないということになり、ついに元禄11年11月3日、十郎兵衛の罪状を明らかにすることなく、磔の刑にしたのでした。
 十郎兵衛は他国米の輸入の掟を犯したことが露見しかけた藩の犠牲になったのです。このとき長男以下男子3人が一緒に処刑されています。
 その後、妻「お弓」は十郎兵衛の刑死後3ヶ月で病死しています。娘「お鶴」については、叔父の松葉清左衛門の家で養われ、他家に嫁ぎましたが子を成さず、若く死んだとも伝えられています。

 

第二の説

 これに対し、もう一つ異説があります。板野郡の宮島浦の庄屋という点は同じです
 親類に貧乏で無頼漢の用右衛門がおり、しばしば十郎兵衛のところに金を借りに来ていました。ある日、手元に金が無かった十郎兵衛は話のはずみに、今度、上方から戻る某の船は、○○位は持って帰るだろうと口をすべらします。
 十郎兵衛は手形の奥書をしたので、港に着く船が上方から持ち帰るおよその金額を予想できたのでした。
 用右衛門は金欲しさに仲間を誘って、和田岬の沖でその船を襲いました。元禄10年(1698年)1月29日である。船頭の曾一兵衛を殺し、船の金庫を探したが、金はありませんでした。腹いせに衣類や道具などを奪い取って逃げました。船が漂っていたことから、海賊に襲われたことが判り、役人が取り凋べました。
 曾一兵衛の妻は文字が書けないので、届書の代書を、庄屋の十郎兵衛に頼みました。十郎兵衛は衣類などの品書を、妻の申し立通りに書かず、わざと違えておいたのです。ところが、その後、古着屋で着物を買った者がおり、それが曾一兵衛のものらしいということから、妻に見せると、夫のものに違いないということになりました。
 しかし、届出の品書を出して見ると、書いてあることと一致しません。しかし妻は、まさかの時のために、着物のたもとに、土地の名と姓名を書いた札を縫い込んでおいたと言います。そこで、ほどいて見ると、妻の主張通り名札が出てきました。
 吟味の末、用右衛門らが襲って殺害したことが露見し、十郎兵衛が用右衛門に金船を教えたことが明らかとなり、同罪の罪に問われ、佐原の刑場で処刑されたのです。

 

 この説は徳島藩にとり都合の良い説でした。確かに、十郎兵衛が用右衛門は同じ日、同じ場所で処刑されたのです。このことから、世間の人々は海賊の一味と想像したのではないかと思われます。それが徳島藩としても都合よく、意図的にこのような風説を流布し、他国米密輸の事実を隠そうとしたのではないかと言われています。