とくしまの歴史散歩

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鳥居龍蔵( とりい りゅうぞう )

 

鳥居龍蔵

 鳥居龍蔵は、明治3年(1870年)現在の徳島市東船場のたばこ問屋に生まれました。小学校に入学しますが、学校になじめず、いつも家に逃げ帰っていました。
 自伝「ある老学徒の手記」には、「尋常小学校を中途で退学」と書かれていますが、のちに徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の資料の中に新町小学校小学中等科の卒業証書が発見されているので、記憶に誤りがあったものと思われます。
 小学校の教科書を読み、「世の中の人間は皆同じと思っていたが、5つの人種があり、日本人はアジア人種の一つ」だと初めて知り、幼心に感銘を受けたと後年語っています。
 これが人類学への関心の芽生え、後にアジア各地を駆け巡る学者としての原点がここにあったと言えます。
 龍蔵は学校には行かずに独学で、歴史や文学、英語、ドイツ語、数学などの勉強をしました。
 「人類学雑誌」の購読者となったことがきっかけで、明治27年(1894年)東京帝国大学の人類学教室の標本整理係として本格的に研究を始めます。
 龍蔵は明治28年(1895年)の中国遼東半島の調査を皮切りに、台湾、シベリア、千島列島、朝鮮半島など東アジアの広大な範囲を調査しました。

 

ドルメン

 この遼東半島での調査で、龍蔵は析木城付近で石器時代のドルメン(巨石墓)を発見しました。当時知られていなかった満州の石器時代の遺跡を初めて確認したのです。

 これらの調査では、現在のような飛行機はなく、もっぱら船、車、馬車、徒歩でした。
 龍蔵の調査は最新の機器の導入が特徴的で、日本人で初めてカメラや蝋管蓄音機を使い野外調査を行いました。

 

 また、現地人が使う民具や道具にも関心を持ち、多くの品々を収集しました。
 これらの民具や道具は、写真より遙かに多くの情報をもたらします。現物があれば後の研究者がその道具などの使い方など、新たな発見をすることも可能となります。
 龍蔵が生涯にわたる調査で撮影した写真や、収集した多くの品々は東京大学や鳥居龍蔵記念博物館、大阪の国立民族学博物館などに残っており貴重な記録となっています。
 現在、現地の人達が過去に行っていた風俗・習慣など忘れてしまっていることも、記録として残っているのです。

 

 龍蔵は言語学にも関心を広げ、千島の調査では多数のアイヌ語を本にまとめています。アイヌ語の千島方言が消滅してしまった現在、頼るべき唯一の資料となっているのです。
 大正11年(1922年)、龍蔵は52歳の時に東京大学助教授になります。しかし、助教授在職わずか2年で、学位論文審査を巡り意見が合わず辞職してしまいます。
 その後、自宅を鳥居人類学研究所とし、これまでの研究をとりまとめた著作を次々に出版します。

 

 昭和14年(1939年)、北京にあったハーバード大学の姉妹校・燕京(えんきょう)大学から客員教授として招かれ、中国に赴任します。
 漢の時代の古い城跡などの調査を行うとともに、遼の時代の文化を中心に 専門的な研究を続け、日本語、中国語、英語で多くの論文や著書を発表しました。

 

 戦争の激化とともに大学が閉鎖されますが、昭和20年(1945年)の終戦により再開されます。多くの教師や学生達から尊敬されていたため、反日感情が高まる中でも、いいち早く、龍蔵は再び招聘されました。
 昭和26年(1951年)燕京大学が北京大学に統合されるのを契機に、龍蔵は惜しまれながらも日本に帰国します。帰国後はライフワークの「考古学上から見た遼の文化」の執筆を続け、草稿がまとまりかけた昭和28年(1953年)に82歳で生涯を閉じました。

 

 龍蔵が目指したのは、人類学の研究を通して日本人のルーツを明らかにすることでした。日本周辺の諸民族の身体的特徴や生活習慣、言語、民話などを調べ「日本人とは何者か」を終生問い続けたのでした。

 

鳥居龍蔵顕彰碑

鳥居龍蔵生誕の地のそばに設置された顕彰碑