とくしまの歴史散歩

① 江戸時代から明治初期にかけての版籍奉還前の徳島藩の時代

廃藩置県前

 蜂須賀氏は豊臣秀吉の天下取りを家臣として支え、阿波一国を与えられますが、秀吉の死後は、石田三成を嫌い徳川方につきます。
 関ヶ原の戦いや、大阪冬の陣・夏の陣で大活躍し、その論功により淡路国が加増されるとともに、松平姓を与えられます。(明治に蜂須賀姓に復姓)
 徳島藩の石高は25万7千石でしたが、吉野川流域での藍の生産を奨励するとともに、全国の藍取引市場をほぼ独占しました。
 また、徳島入国前に播磨国龍野にいたことから、赤穂で盛んであった製塩業に目をつけ、赤穂より塩職人を招き、本格的な製塩業を始め、赤穂の塩とともに高い銘柄の商品として、江戸市場などで好評であったと言います。 さらに、木材、煙草の生産をはじめ、海運も盛んで諸国との交易は隆盛を極めました。これらの特産品から得た利益を合算すると四十数万石にも相当するなど、江戸期においては群を抜く裕福な藩でした。
 家臣の中には、稲田氏1万4千石、加島氏1万石のように1万石を超える者もいました。当時、1万石程度の大名が全国に数多くいたことを考えると、徳島藩の存在がいかに大きかったかうかがえます。
 藩主の蜂須賀氏は、その後も外様大名として存続し続け、明治維新を迎えています。


 徳島県の設置

廃藩置県時

 1871年(明治4年7月)、廃藩置県により徳島県となりましたが、県域は阿波と淡路南半分(三原郡)となりました。淡路北半分(津名郡)は兵庫県とされました。 淡路北半分が兵庫県とされたのは、前年に起きた庚午事変(稲田騒動)が原因でした。
 幕末期、蜂須賀氏は世継ぎに恵まれず、11代将軍徳川家斉の子(22男、家斉には55人の子供がいた。)を養子に迎えていたため、表立って倒幕運動に加わることができませんでした
 一方、徳島藩の筆頭家老稲田氏(阿波の美馬郡と洲本城代・仕置役として淡路を治めていた)は正室が公家の出で、岩倉具視に接近し倒幕運動に加わり、明治維新における功績をあげました
 明治政府は国家財政の確保のため、禄制改革で武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすことにしました。(禄制改革)
 蜂須賀氏直属の家臣は全員士族とされましたが、稲田氏の家臣は陪臣(家臣の家臣)ということで、卒族とされてしまったのです。
 勤王に尽くした功績に対して、論功行賞があると思っていた矢先の冷たい仕打ちに稲田氏の家臣たちは態度を硬化させ、全員士族への編入、さらには、分藩までも政府の重役や京都の公家に働きかけるようになります。これに反発した徳島本藩側の藩兵(淡路の農兵隊が中心)が、洲本にあった稲田氏の屋敷や家臣の屋敷を襲い多くの死傷者を出しました。この事件が起こった干支が庚午(かのえうま)だったので庚午事変、稲田騒動とも呼ばれています。
 明治政府は喧嘩両成敗にします。事件の首謀者たちは斬首(蜂須賀氏の陳情により切腹に変更される)や八丈島への流罪にされました。徳島市住吉にある蓮花寺で切腹が行われましたが、この切腹は日本の法制史上、最後の切腹刑と言われています。
 一方、稲田氏及びその家臣に対しては北海道(日高静内地方)への移住を命じます。船山馨が書きテレビドラマにもなった「お登勢」や、吉永小百合さん主演の映画「北の零年」は、このときの稲田氏家臣の苦難を描いた作品です。
 なお、明治政府は再び徳島藩士が騒乱を起こすことを心配し、稲田氏の北海道への移住が終了するまでの間、稲田氏が治めていた阿波の領地を切り離し、淡路島に集中させ、その石高に見合った淡路島の北半分の津名郡を兵庫県に編入させたのです。
 私が以前大阪で勤務していたとき、大阪府立図書館で淡路津名郡の住民から明治政府に徳島県への復帰を求める嘆願書の写しを見つけました。大変興味深くコピーを取りましたが、引越の際にこれを紛失してしまったことは残念でした。


③ 名東県の誕生

名東県1

 1871年(明治4年11月)に行われた全国規模の府県の大統合の際し、徳島県は名東県と改められるとともに、再び淡路島全域が管轄となりました。これは稲田氏が家臣とともに北海道に移住し、再び内紛の恐れがなくなったためです。

 一方、なぜ徳島県の名称が県庁所在地の郡名に変更させられたのかについては、「戊辰戦争における勤王の忠勤藩と佐幕の朝敵藩、日和見の曖昧藩を区別し、忠勤藩には旧藩名を県名にそのまま使い、朝敵藩や曖昧藩には旧藩名を存続させず、郡名や山川名をつけさせた」との説がありますが、本当のところは分かりません。

 

 

 

 

名東県2

 明治5年6月に香川県を編入しますが、合併当初から阿波と讃岐はことあるごとに対立し、明治8年9月には香川県が独立し、名東県はもとの県域に戻ります。

 廃藩置県に伴い、すでに旧藩主は東京への移住を命じられていましたが、た。1873年(明治6年)に太政官達「全国ノ城廓陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」の件(通称廃城令)が出され、徳島城は陸軍省に移管され、1875年(明治8年)には鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建物が取り壊されました
 明治政府は明治維新から日が浅く政権基盤が盤石でなかったために、藩主の東京への移住と廃城令で、かつての藩主と家臣が一緒になり政府に敵対することを防ぐためにこのような政策がとられたのです。

名東県3

④ 高知県への併合と淡路の分離

高知編入

 1876年(明治9年)、再び全国的な府県統合が行われ、名東県が廃止され、阿波は高知県に併合されるとともに、淡路島全域が兵庫県に編入されました。
 このとき、県庁は高知におき、徳島には支庁がおかれましたが、1878年(明治11年)には支庁が廃止され、徳島出張所に格下げされてしまいます
 名東県の廃止は、単独では財政基盤が脆弱だということが理由とされました。
 しかし、人口の多い名東県を、人口の少ない高知県にくっつけるのは不可解です。
 明治8年、阿波と淡路双方に支部を持つ政治結社(自助社)の印刷物が政府を誹謗するものとして幹部が逮捕、収監されてしまいます。
 名東県の取り潰しは、このような反政府の動きを封殺しようとする意図や、最高権力者の内務卿大久保利通が府県合併に際し、「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ。」との指示が影響したのではないかと私は考えています。

 

兵庫県

 その結果、明治4年に西宮・神戸とその周辺に過ぎなかった小さな兵庫県が、明治9年には、飾磨県(播磨)・豊岡県(但馬・丹波)・名東県の一部(淡路)を編入し、近畿で最大の県となりました。

 現在の兵庫県の県域は、幕末(慶応4年)の藩の数からすれば19藩が一つの県になったものであり、初代知事が後に首相になる伊藤博文であったことからしても明治政府がいかに兵庫県を重要視していたことが分かります。
 その時の兵庫県の人口(約135万人)は、東京府(当時は東京府)・大阪府をしのいでいました。


⑤ 徳島県の再設置

兵庫県

 名東県が廃止され高知県に併合されたことに反感を抱いていた阿波の人達は、予算執行の不公平や、支庁が出張所に格下げされたことに不満を持ち、風土、歴史、人情を異にする土佐、阿波を一県とするには無理があるとして、高知県議会に「高知県より阿波国を分離し徳島県を置く建議」を提出します。
 激しい論戦の末、議員の数も阿波が多かったため分離が議決され、政府からも徳島県の再設置が認められました。
 このとき、内務卿であつた伊藤博文は「阿波と淡路を合わせて、1県を設けたい」と上申し、上奏、裁可を仰ぎ、布告することとなっていました。
 しかし、淡路島の津名・三原両郡長等から徳島県への編入に反対する陳情書が提出され、最終的に阿波だけの徳島県が再設置されることとなり、現在に至っています。