とくしまの歴史散歩

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関 寛斎 ( せき かんさい )

 

関寛斎

 関寛斎は1830年(文政13年)、上総国山辺郡中村(現在の千葉県東金市)の農家に生まれました。

 佐倉「順天堂」でオランダ医学を学ぶとともに、江戸の種痘所ではコレラの予防法を、長崎ではオランダ人医師ポンペに師事し、最新の医学を身につけました。
 1862年(文久2年)徳島藩の招きにより徳島に移住し、藩医(典医)となり、戊辰戦争では、軍医として従軍し、負傷者が出ると敵味方の区別なく治療しました。
 寛 斎は「医をもって人を救い、世を救う」「患者に上下はない」を信条としていました。
 明治維新後、東京の大学東校(現在の東京大学医学部の前身)からの再三の教授就任要請を断り、また、陸軍省からの軍医の重職への要請も断ります。
 徳島に戻った寛斎は、藩立の医学校の創設に情熱を燃やし、教授、、診療所長となりますが、まもなく辞職し、現在の徳島町1丁目(城東高校敷地)で一介の町医者として開業します。
 患者の大半は貧しい者で、彼らからは一銭の金も取りませんでした。寛斎が日本で第一級の医者であることは広く知れ渡っていたので、富裕な患者が遠くからも来ました。
 彼らに十分に説明した上で、高い治療費を取り、それを貧しい者の無料診療に当てました。
 このため、地域の住民からは「関大明神」とあがめられ、関医院に至る道は「関の小路」と呼ばれていたそうです。 
 72歳にして一念発起し、40年近く過ごした徳島を去り、北海道の陸別町に移住し、広大な牧場の開拓に情熱を注ぎ、全財産を投じます。
 その一方で、ここでも地域の人々に無料診療を行いました。そのため、現在でも陸別町では関寛斎を開拓の祖として尊敬し、関神社を建立し、命日には大勢でお参りをしています。
 陸別町では、関神社の前にくると馬も牛も頭を下げるなどと言われているそうです。
 晩年、自らの土地を解放し、自作農の創設を志す理想郷の実現を目指ますが、家族との確執から果たせず、1912年(大正元年)83歳で服毒自殺し生涯を閉じました。

関寛斎像

 歴史小説「胡蝶の夢」は、関寛斎を主人公の一人として司馬遼太郎が描いたものですが、この中で寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評しています。

 徳島市の助任川沿いの徳島河畔緑地公園には関寛斎の石像が建てられています。片手に医書を持ち、フランス式の軍服に身を包んでいます。
 北海道陸別町の寛斎の顕彰に較べ、人生の半分を過ごした徳島での評価、扱いは何とも寂しい限りです。

 

関 寛斎辞世の句

 

  “我身をば 焼くな埋むな そのままに 斗満の原の 草木肥せよ
                                                                                                                        助任川河畔に建つ関寛斎像